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蛇屋敷
【8月9日】
『蛇屋敷』。
に棲む彼女に恋をした。
「これ……読んでください」
蛇屋敷の柵越し、手紙を渡した。
彼女は一瞬目を見開き、
「ありがとう」
といった。
背中を向け、振り向きざま、
「またこの時間にお会いしましょう」
と微笑んだ。
「はいっ」
勢いよく返事した僕の声は、蝉の鳴き声を掻き消してしまうほど素っ頓狂なものだった。
彼女の黒髪が門扉の向こうに消えていった。
【8月10日】
「お手紙読ませていただきました」
昨日と同じ時間、僕たちは再び蛇屋敷の柵越し、向かい合っていた。
「貴方のお気持ち、とっても嬉しかった……」
漆黒の睫が頬に落ちる。「こんな私でも、想ってくださる方がいるなんて……」
「あのっ、貴女は充分魅力的ですっ!」
伏せた瞼が寂しそうで、僕は思わず喚き立ててしまった。「あ……その……、見た目だけでなくて、立ち居振る舞いとか、雰囲気とか、仕草とか……」
って、これも見た目か……。
失言だったかと思い、いい淀んでしまう。なおももごもごと口ごもる僕に、彼女は、
「これから私たち、たくさんのこと知り合えたら素敵ね」
と微笑んだ。
そういう彼女の笑顔は、やはり少しだけ寂しげなものだった。
【8月11日】
「今日、少しどこか出かけませんか」
出会ってから三日目。
僕は勇気を振り絞って彼女を外出に誘ってみた。けれど彼女は、
「……ごめんなさい……」
と、明らかにいい澱んだ後、瞳を逸らしながら続けた。「家族の者が、皆留守で……、家から出られないの」
なんだ、そんな理由か、と思った。それなら仕方ない。嫌われてるんでなければ、それでいい。僕は逆に安堵した。
「……僕は貴女とこうやっているだけで幸せですから」
彼女の心境を窺うように、上目使いで見遣る。彼女の白皙(はくせき)に朱が差した。そうすると、意外なほどに親しみやすさを覚える。
僕は彼女の頬を掌で包んだ。
「また明日……来ます」
【8月12日】
「そう……それで『蛇屋敷』って呼ばれてるんだ……」
「ええ……」
手紙を渡してから四日目、同時刻。僕たちはやはり柵越し、言葉を交わしていた。
「あ、ごめん」
「まあ、何が?」
「いや、だって、『蛇屋敷』って、邑(むら)の人達から呼ばれてるなんて、不愉快だろう?」
彼女は朗らかに微笑んでみせた。
「先祖代々、敷地内の井戸に棲む『白蛇様』を祀っているから『蛇屋敷』。わかりやすくていいわ」
その表情は、不思議と普段感じる寂しさを感じさせないものだった。
「貴女はその蛇神様を見たことがあるの?」
僕は若干の好奇心にかられて尋ねてみた。
「……一度だけ」
一度だけ、と彼女がぽつりといった。
「白色の鱗がとっても美しい……、目にも眩い白蛇だったわ」
柵を掴む手にぎゅっと力を込める。錆びた門扉に、彼女の指の細い関節が痛々しいほどだった。
白蛇様じゃないけれど、彼女もとても白い……。
僕は眩しさから目を逸らすように、それとなく顔を夏空に向けた。
「でも、どうして井戸を棲処にしてるのかなぁ。その蛇神様は……」
お社の中とかのほうがそれっぽいのにね、と僕は軽口を叩いてみせた。
「閉じ込めて、出さないため」
「え」
彼女にしては硬い感じの声が、異質だった。
「そうやって……つないでいく」
「……」
それは、「命を繋いでいく」という意味なの、それとも「井戸に繋ぐ」という意味なの。
僕は尋ねようとして、けれど彼女の揺れる黒髪がいつになく儚気そうに映って見えて、口を閉ざした。
【8月13日】
「はい」
「まあ、綺麗……」
「小ぶりだけど、鮮やかな橙色でしょう。貴女の気持ちが明るくなればいいなと思って」
同時刻。
僕は普段から山中で見かける名も知れぬ花を彼女に渡した。
「昨日、何だか少し元気なさそうだったから……」
彼女の頬に陽光が揺れる。僕は光の乱反射をかいくぐるように、彼女の黒髪に腕を伸ばした。
花を挿す。
黒髪に橙の対比が眩しかった。
彼女の瞳が花を追って目尻に寄る。
僕はその隙を縫って、彼女の顔を捉えた。
僕が手紙を渡して五日目。
僕たちは口づけを交わした。
僕たちの足下で、蝉が腹を見せながらもがいてた。
【8月14日】
「貴方に昨日頂いた花、もう枯れてしまったの。花瓶に挿していたのに……、ごめんなさい」
そういう彼女の顔はとても悲痛なものだった。申し訳なくて仕方ない、というふうに眉を寄せている。
「そんなの、貴女が謝ることじゃないよ」
僕は柵の向かい側から彼女の手を取った。
「僕が適当に引っこ抜いてきたからいけなんだよ。そこでしか咲けない花ってあるらしいから……」
「そこでしか、咲けない花……」
そういう彼女の声は、問いたげなものだった。
「うん、山野草(さんやそう)っていうのかな。その花、山の中でしか咲かないんだ」
「……」
夏の生温い風が彼女の髪を攫っていく。
「あの花は……そこでしか咲き誇れないのね。その場所でしか、生きることができない……」
黒髪に掻き消されて彼女の表情がよく見えない。
夏の盛り。
けれど、蝉の鳴き声は、もう、聴こえない。
【8月15日】
僕たちが出会ってから七日目だった。
それは突如訪れた。
「お入りになって」
と、彼女が僕を門扉の内側に招き入れた。
僕は恐る恐る、彼女と連れ立って屋敷の庭を練り歩いていった。
これが蛇屋敷……。
けれど邑(むら)の人々たちの噂話とは裏腹に、蛇屋敷の内側は、意外なほどに清々しいものだった。
「綺麗に手入れされているんだね」
彼女とこうして並んで歩くのは初めてだったから、何をしていても楽しかった。彼女は特に言葉を発するでもなく、微笑みを称えながら僕の他愛ない話に耳を傾けてくれていた。
庭の趣が変わってきていることに、だから僕はしばしの間気づかなかった。
「……」
雑草一つなく整然と整えられていた表の庭園に反して、そこはあからさまに荒れ果てていた。冷え冷えとしているのは日当たりが悪いからだろう。おまけに日照不足に便乗するように湿気っていて、如何にも陰気臭い。
異様な佇まいに思わず息を呑んでしまったのも束の間、彼女が僕をこんなところへ伴ってきた理由はすぐに判明した。
「井戸」
「え」
「……いつかお話した……井戸。蛇神様の……」
彼女が指指した方向に目を見遣ると、確かに草に覆われ盛り上がった、井戸と思わしき形跡が認められた。
「ああ、これのことなんだ……」
想像していたのと違う様子に少しだけ戸惑う。祀っている、という語感から、もっと仰々しく飾り立てられていると思ったのだ。それこそ注連縄なんかで囲ったりなんかして。
けれど実際は、粗末ともいえぬほどにただ、そこに放置されているだけだった。
冷気に浸された裏庭が、けれど次の瞬間、そこだけ夏が充ちたように熱を増す。
「え……な、にを……」
彼女が……。
彼女が、突如衣服を脱ぎ払ったからだった。
夏になったのは、僕の血潮だった。
「私の身体には、『性』がありません……」
俄には信じ難い告白に、けれど僕の身体は彼女の抜き身の姿に釘付けになる。
まっすぐな胸に凹凸に乏しい身体の線。
確かに女性とはいい難い。
けれど白々と濡れた光を放って……。
僕はふらふらと、吸い寄せられるように、彼女の裸身に近づいていく。
「それでも、それでも、私は貴方を愛しています」
僕も愛しています、と応えたかったけれど、目の前の身体の磁力は僕から言葉を奪うものらしい。
僕は夢中で彼女の身体を手繰っていった。
そうして僕は、彼女の正体を悟った。
彼女の身体には「性」がない代わりに、小さな貝殻みたいな鱗が下腹部にびっしり張り付いていたのだ。
「君が白蛇様だったんだね……」
彼女の頬から涙が落ちる。
いつしか僕の爪に、指に、腕に、肩に、首に、鱗が生えていって、彼女の命が僕に『繋がれて』いくのが、わかった。
彼女に繋がれた僕の身体がこの上ない快楽に満たされていく。
最期の瞬間に、彼女の瞳を捕えた。
僕はその寂しそうな瞳を脳裏に刻みつけた。
しゅる、と、僕たちの身体が井戸の底に吸い込まれていった。
【8月9日】
蝉の鳴き声が聴こえる。
喧噪が、井戸の底にまで響いてくる。
聴覚とは別のところで、僕は外の気配を捉えていた。
僕はもはや「僕」と呼ぶべき身体も意識も、『資格』も失っていた。
代わりに新たな「私」を得た私は、歴代の「私」と愛を囁き合う。
「あの屋敷、蛇屋敷って呼ばれてるんだって」
「怖いよなっ」
子供達の元気な声が聴こえる。
「……けど、あすこ、すっごい綺麗な人、いたよ……」
騒いでいた子供達とは別に、おとなしそうな男児の声が脳裏に届く。
「私」は井戸の底で微笑む。
次の「私」がここにやって来るのはいつのことだろうか。
私は連綿と続く「私」と恋をする。