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崩れた舟の上で

崩れた舟の上で

セイレンを初めて見た時の印象は崩れた子だな、というものだった。
セイレンは全てが平均以下だった。
全ての所作に鈍さがつきまとっていた。
遅い、という意味ではない。
印象だった。
食事の仕方、喋り方、学校の成績、右肩上がりの癖のある筆記、人とのつきあい方。
セイレンの身体を通して為される事の全てに崩れがあった。
セイレンは秩序という美しさとは無縁の人間だった。
その尾を引くだらしなさは僕の母親を想起させた。

僕の母は娼婦だった。
僕が十一の時に死んだ。
病気だった。
母は曖昧な自殺を選択したのだ。
推測だけれど。

治せない病ではなかった。
手の届かない程高額な薬でもなかった。
母は治療を積極的に拒んだ。
そして病が勝った。
負けた母は死んだ。

残された僕は親戚の家か孤児院かの二択を迫られた。
迷わず孤児院を選んだ。
親戚の伯母さんの表情が緩んだ。
僕の選択は正しい事が多い。
大人にとっての正しい選択を常に瞬時に判断出来る僕への周りの評価はこうだ。

アルシュはとてもいい子で賢いですね

アルシュという名は父がつけた。
太陽の都〈イ・ソル〉の著名な聖職者。
顔は知っていた。
父は僕の顔を知らない。
存在は知っていたけれど。
養育費の譲渡を母は執拗に拒んだ。
父と縁が薄くなる遠因でもあった。
公に出来ない父の存在は自然僕の性格を慎重にさせた。
その慎重さが更に僕を「いい子」にさせた。
秘密を保持したいが為の処世術だった。
処世術の内容と周りの利害が一致した為、見破られる事はなかった。
ただ一人セイレンを除いて。

「月の女神を乗せた舟の名前なんだって」

もぞもぞと掛布から顔を覗かせながらセイレンが言った。

「アルシュ」

セイレンは頻繁に僕の寝所へ忍び込んでくる子どもだった。
共同部屋に設置された立体構造の寝具は振動に弱い。
ちょっとした動作で音を立てる。

「しっ……君、駄目だよ、静かにしなきゃ、早く自分のところに戻りなよ」

「アルシュって名前、〈月の女神セイレン〉を乗せた舟の事なんだって。アルシュはわたしをいつかどこかに連れていってくれるのかな」

セイレンは馴れ馴れしい子どもだった。
『太陽の家』へ入所して十日も経っていなかった。
距離の詰め方がおかしい子だなと僕は直ぐに思った。
仕事をしている時の母に似ていると思った。
初対面の男の前でも全裸になる母に。
母は僕の前でも平気で仕事をする人だった。
僕にとってそれは日常だった。
それが普通の事じゃないと理解したのはいつの事だっただろうか。
『お前の母ちゃんインバイっていうんだぜ』
仕事を終え客を見送った母はいつも真っ先に薄布の向こうの僕を抱擁しに来た。
汗ばんだ柔らかい肌が温かかった。
「アルシュ大好きよ。愛しているわ、世界で一番愛している」
幸せだった。
僕は母が大好きだった。
涙が出ていた。

「……寂しい、おかあさん、会いたいよ、会いたい……どうして僕をおいていっちゃったの……」

膝を抱えて嗚咽を堪えた。
皆を起こしたら駄目だ。
我慢しなきゃ。

「よしよし、アルシュ、いい子、いい子。
アルシュ大好きよ。愛しているわ、世界で一番愛している」

セイレンが小さな身体で僕を包んだ。
セイレンからは月の花の甘い匂いがした。

「おかあさん……」

僕がセイレンに特別な想いを抱くようになるのに時間は掛からなかった。

新しく来た院長先生は先生というよりはお兄さんという風体だった。
子どもの僕から見ても緊張している事が見て取れる自己紹介だった。
皆のからかいの言葉に本気で怒り出した時は吃驚した。
大人が砕けた言葉を使う事にも驚いた。
爽やかな風のようなお兄さんだった。
僕はこのお兄さんをすぐ好きになった。
お兄さんは僕を本気で頼っていてくれるような所があって、それがとても誇らしかった。

アルシュはとてもいい子で賢いですね

お兄さんのその言葉だけは他の大人と違う意味を持って僕に響いた。

お兄さんはセイレンを特別視しているところがあった。
その事で一度「太陽の家」が騒然となった事があった。
問題はすぐに解決したけれど、その出来事は僕にお兄さんへの対抗意識を植え付ける事になった。
もちろんその気持ちは押し隠した。
秘密の保持は僕の得意とする所だった。

セイレンの要領の悪さは目に余るものがあった。
処世術という要領の良さで渡り歩いてきた僕の目には尚更そう映った。
放っておけなかった。
お兄さんへの対抗意識もあって僕はセイレンを必要以上に構った。
特に対人関係においては神経質過ぎる位に僕はセイレンに気を配った。
その甲斐あってかなくてか、セイレンが孤児院内で孤立する事は目に見えて減っていった。
僕達は親友と言ってもいい位にいつしかいつも行動を共にするようになっていった。
セイレンの複雑な性は日を経る事に男に固定されていった。
表面上は。
僕がそう助言したからだろうか。
僕は十七歳、セイレンは十五歳になっていた。

「アルシュ」

セイレンの漆黒の髪が紅い瞳の上で揺れる。
僕はセイレンの長い黒髪が大好きだった。
「髪だけは切らないでね、セイレン」
セイレンが物言わず微笑んだ。
僕と二人きりの時にだけ見せる女の子の顔。
お兄さん、この顔をお兄さんは知ってる?

「おいアルシュ、セイレンに余計な事吹き込んでじゃねーぞ」

ノアだった。
腰に手を当てて背後には取り巻きの女の子を引き連れている。
一人じゃ何も出来ない臆病なノア。
僕はノアの事が嫌いじゃなかった。
でも最近の執拗な絡みには若干辟易していた。

「セイレンはわたし達のグループの友達なんだからよ」

「奴隷の間違いじゃないの」

学校の階段で呼び止められた僕は何度このやり取りをしただろうかと内心で嘆息をついた。
無視して立ち去ろう。
面倒臭い。

「知ってっか? あいつ、男喰いまくってんだけど」

ノアを振り返った。

「アルシュマジ受ける。ビビり過ぎだし」

女の子達が嘲笑と共に去っていった。
取り残された僕は天井を仰ぎ見た。
驚かなかった。
セイレンならやりかねない。
セイレンは娼婦だった僕の母に似ているのだ。
けれどそれを見過ごせるかどうかは別問題だった。

「セイレン、僕と付き合って」

セイレンに告白した。
セイレンの行動を踏み込んで監視する為には必要な事だった。
セイレンは紅い瞳だけで肯定の意を伝えてきた。
僕はセイレンを抱き締めた。
僕以外の誰にも身体を触れさせないで。
監視という名の独占欲だったのかもしれない。

セイレンが腹の上で揺れていた。
僕の身体を使っての自慰に等しい。
僕はセイレンにされるが侭だった。
セイレンが行為に手慣れているのはあきらかだった。
誘ってきたのはセイレンの方からだった。

「……初めて?」

「うん……」

そうとしか答えようがなかった。

慣れてくると今度は僕の上で一方的な悦楽に浸るセイレンが腹立たしくなってきた。
ある日、跨がるセイレンの腰を強引に掴み主導権を力尽くで奪ってみた。
セイレンの反応があからさまに変わった。
その変化は僕を熱狂させた。
身体を起こしてセイレンの体勢を無理矢理に変えた。
セイレンの背中を夢中で吸った。
薄い胸に爪を立てた。
セイレンの未成熟な隘路が悲鳴を上げていた。
止められなかった。
セイレンは泣いていた。
僕の欲望を受け取った後もセイレンは瞳を見開きながら泣いていた。
紅い瞳が僕を真っ直ぐに見つめていた。
身侭な放蕩に耽っていたセイレンが、初めて僕を瞳に映してくれた瞬間だった。

行為中のセイレンの崩れぶりはひどいものだった。
あらゆる理性を溶かし込んだかのようなだらしなさがあった。
その癖してセイレンの身体は曖昧な未成熟さに充ち満ちていた。
崩れた欲望に身体が追いついていない。
身体と精神の間で秩序がまるで保たれていなかった。
崩れていた。

行為を確保するのは労を要した。
僕たち孤児がいかに個を約束されていないかを行為は浮き彫りにさせた。
学校の廃部屋で、街の隙間で、港の物陰で。

「セイレン、上に乗って」

寝所での行為は不可能に近かった。
場所に合わせて対応するしかなかった。
セイレンに主導権を握らせるのは嫌だった。
セイレンには独りよがりなところがあったからだ。
セイレンはよく泣いた。
セイレンは行為中に必ずと言っていい程涙を流した。
痛みからではなかった。
哀しいからではなかった。
快楽に震えているからではなかった。

「アルシュ、わたし、すごく、幸せ」

セイレンの幸福の在処が崩れているからだった。

『月の女神を乗せた舟の名前なんだって』

なんてエグイ。
そのままじゃないか。

「よしよし、アルシュ、いい子、いい子。
アルシュ大好きよ。愛しているわ、世界で一番愛している」

僕の欲望の残滓がセイレンの少女の狭間から伝い落ちていた。
セイレンが僕に穿たれた姿勢のまま僕を抱擁していた。
一番大好きな時間。
セイレンが頭を優しく撫でてくれる。

「よしよし、アルシュ、いい子、いい子」

セイレンハオカアサンミタイダッタ

僕のセイレンへの気持ちを一言で説明するのは難しい。
崩れたところが好きだ、という訳ではなかった。
その崩れは放っておけない一因ではあったけれど。
誰とでも寝る奔放さが好きだ、という訳でももちろんなかった。
けれどその事が嫌悪として直線で結びつく事はなかった。

僕の娼婦だった母は、身体を通して為される事の全てに崩れがあった。
僕の娼婦だった母は、秩序という美しさとは無縁の人間だった。
その尾を引くだらしなさは、僕にとって母性の象徴だった。

きっと、そういう事なのだろう。

「セイレン、降りないの、」

「ん……アルシュ、も、一度、」

我が侭な腰が跳ねる。
何て身勝手な。

月の女神の名を持つ少女が、行く当ての無い肉の舟の上で揺れている。

「セイレン、どこに行きたい」

「ここじゃない、どこか」

何だ。
月の女神も行き先が分からないのか。
なら僕はせめて舟となって、刹那の航海の間女神を守ってやろう。
この崩れた女神を、世俗という名の、秩序の荒波から。

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