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ルプス
──新説赤ずきんちゃん──

ルプス
──新説赤ずきんちゃん──

 昔むかしある所に、たいそう愛らしい女の子がおりました。
 陶器のように白い肌、亜麻色の柔らかな髪、空を写し取ったような真っ青な瞳……。
 それより何より人目を惹くのは、その子の頭部を彩る真っ赤な頭巾でした。
 手足の白い彼女にその赤はとても映えました。
 人々は親しみと憧憬を込めて、女の子を赤ずきんちゃんと呼びました。
「赤ずきんちゃんや赤ずきんちゃんや」
 と、今日もお母さんが赤ずきんを呼び寄せます。
 いつものおつかいだわ、と思ったら、案の定そうでした。
「お菓子と葡萄酒をお婆さんのところへ届けてちょうだいな」
「いいけど、どうしてお母さんが自分で届けに行かないの?」
 お母さんが少し眉をしかめたような気がしました。
「お母さんにはお母さんの事情があるのよ」
「ところでうちにはどうして父親がいないのかしらね?」
「さっさとお行きなさい。口答えばっかりしていると、日が暮れてしまいますよ」
「はーい」
 どうやらお母さんが頑としてお婆さんのところに顔を出さないのは、よその家みたいにうちにお父さんがいないからであるようだということが分かりました。お婆さんはお父さんのお母さんに当たるのです。つまり、お母さんとお婆さんは、他人といって差し支えないのでした。
 さて、お母さんが「ヒステリー」を起こす前におとなしく引き下がった赤ずきんですが、いいたいことを飲み込めば、そのぶん内に不満がたまるのが人間というものです。
(どうしてうちにはお父さんがいないのかしら)
(お父さんの話になると、どうしてお母さんは不機嫌になるのかしら)
(お父さんがいたとしたら、どんな感じなのかしら)
(お父さんは、きれいな人なのかしら……)
 そんなことを考えていると、いつの間にやら赤ずきんは、大路を外れて見知らぬお花畑に迷い込んでいました。
(いけない!)
 あわてて引き返そうとした赤ずきんでしたが、ふと思い直します。
(二言目には寄り道しないこと、寄り道しないこと、っていうけれど、そんなに寄り道が嫌なら、あの女がお婆さんの家に行けばいいのよ)
 そう考えるといいつけを守るのも急にばかばかしく思えてきて、赤ずきんはお花畑に仰向けになりました。
 空は抜けるような晴天。
 木漏れ日が赤ずきんの頬を踊り、花々の間を蝶が舞います。   
 一路お婆さんの家を目指していたら、絶対に目にできない光景です。
 お母さんに反抗することで、初めて赤ずきんはこの素晴らしい景色を獲得したのです。
「おや、こんなところに赤ずきんちゃんが」
 赤ずきんは度肝を抜きました。
 恐ろしく美しい人が、自分を上からのぞき込んでいたからです。
「ん? 違ったかな。君はあの噂に名高い赤ずきんだろう?」
「そう……だけど……、あんた誰?」
 どうしてわたしの名前を知ってるの?
 というもう一つの疑問は、なんとなく口にするのがためらわれました。
「私はルプス。この辺りで農業をなりわいにしている者だよ」
 不思議な響きの名前。
 それに、とてもじゃないけど、農夫には見えない。
 身なりこそ平凡な農夫そのものでしたが、この青年から醸し出される雰囲気は、農夫という語感とはかけ離れたものでした。
 日に焼けてない肌がまず農夫らしくありませんでしたし、立ち居振る舞いはもっとそうです。ルプスは所作の一つ一つがうっとりするほど流麗で、おおよそ赤ずきの知る土臭い農民とは別物だったのです。
「籠からのぞいてるそれは、焼き菓子と、それから、葡萄酒だね」
 ルプスがやおら興味を示したように赤ずきんの横に居座りました。
 男の人どころか父親とすら接したことのない赤ずきんはどぎまぎしました。
 何しろルプスときたらとってもいい匂いがするのです。
 後ろで一つにまとめたルプスの髪が赤ずきんの肩をくすぐります。赤ずきんはなんだかとっても恥ずかしい気持ちになりました。
「赤くなってる。どうしたの?」
 ルプスの指が赤ずきんの頬に触れます。
 とっても馴れ馴れしい人。
 でも、嫌な気持ちにならないのはなぜだろう。
 いけない娘だな、こんな昼間から寄り道をするばかりか、葡萄酒を浴びるなんて。
 違う、お酒なんて一滴も飲んでない、それに顔が赤いのはお酒のせいなんかじゃない。
 反論しようとしたけれど、小鳥よりも口達者なはずの舌が、今日に限ってまったく滑りません。
(どうしちゃったのかしら、わたし)
 気が付けば青年の顔を間近に臨んでいました。
 赤ずきんは青年に組み敷かれていたのでした。
 ルプスの舌が赤ずきんの歯列を割って入ります。
 いつの間にか半開きになっていた赤ずきんの唇は、青年の侵入を許してしまっていたのでした。
 膝が割り入れられ、自分の身体があらぬ形に折り曲げられていきます。
 最初、赤ずきんは、それを酒瓶だと思いました。
 硬くて筒のような形状をしていたからです。
 でも、酒瓶と違ってそれはとっても熱いのでした。
(葡萄酒が沸騰してる、とか? でも、そんなの聞いたことないし……お婆さんに届けるのは、いつも冷えたお菓子と瓶詰めの葡萄酒……)
 と、横目で籠の中にしっかりそれらのものが収められているのを認めて、赤ずきんは目を割れんばかりに見開きました。
(違う、これは、酒瓶じゃない!)
「やぁあぁあ……ん」
 叫んだつもりでしたが、語尾には、御し難く甘やかな響きが入り交じっていました。
「やっと気が付いたかい?」
 青年──ルクスです──が、先ほどまでの涼やかな顔はどこへやら、凄みのある微笑をたたえて赤ずきんを見据えます。
「柔らかそうで、おいしそうで、ずっとこうしたいと思っていた。そろそろ食べ頃かな、と思ったら、君のほうから顔を出すんだから」
「あんた誰よ……!」
「君がずっと会いたがっていた人」
 そして君自身でもある。
 今度こそ……。
 青年の声が遠のいていきます。
 次に目覚めたとき、赤ずきんは、先ほどと同じようにお花畑に寝転がっていました。
 顔の横には、手付かずの焼き菓子と葡萄酒。
 蝶がのんきに周りを行き交っています。
(白昼夢だったのかしら)
 起き上がった途端、足の間に鈍い痛みを感じました。
 あれが夢じゃなかったことを赤ずきんは思い知りました。
(体裁だけでも取り繕わなきゃ)
 お母さんのヒステリーが頂点に達すると、赤ずきんでも手が付けられなくなるからです。
 お母さんの折檻と比べたら、下腹部に感じる……それもどこか甘やかですらある……痛みなど、たいしたことはないと思えるのでした。

 お婆さんの家の扉の前に立ったとき、赤ずきんは、いいしれぬ異変を覚えました。
 何がどう、といえないのですが、感覚がざわついて、じっとしていられない感じです。
「お婆さん!? わたし、赤ずきんです。入りますよ!」
 いつもは口うるさいお母さんのいいつけを守り、あいさつとノックを欠かさない赤ずきんですが、このときばかりはそうもしていられませんでした。赤ずきんは半ば体当たりをするように身体を中に滑り込ませました。
 果たして赤ずきんの嫌な予感は当たっていました。
 お婆さんの寝台には、ルクスが腰掛けていたのです。
 それも、女装をした。
「やぁ」
 青年、ルクスがほっかむりを取りました。
 長い髪がばさりと音をたてて落ちます。
 赤ずきんと同じ亜麻色の柔らかな髪。
 瞳の色も同じ青です。
 片足を立てた不遜な格好が、なぜかルクス青年にはしっくりくるから不思議でした。女装をしてるのも、これはこれで悪くないと思えてくるから面妖な話です。つまり、ルクスは、どっちつかずなのでした。
「ようやく目が醒めたかい、お嬢さん。そう、私がおまえの祖母だよ」
 そうしておまえの父であり母でもある。
 訳が分からず言葉を継げない赤ずきんをよそに、祖母であり父母でもあるというルクス青年は辺り構わず喋り続けます。
「もう今度こそ二度とお前を外に出さない。絶対に絶対に絶対に。私は産むことも孕むこともできないが戻すことは得意なんだ。今度こそは母としてお前を私のもとに還してみせる」
 足がすくむほど怖くてたまらないはずなのに、ルクスの青い目があまりに寂しげで赤ずきんは逆らうことができません。
 むしろ。
(あんたが寂しいっていうんなら、わたしはあんたのものになっていいわ)
 そう思えるのでした。
 だって。
 だってわたしだって。
「気が付けば父はおらずかといって母にも愛されず、ずっとずっと寂しかったんだもの」
 ルクスが微笑んだような気がしました。
 けれどそれは、ぱっくり開いた口がそう見えただけかもしれず、いずれにせよ、赤ずきんにはもうすでに真偽を確かめる術はないのでした。
 赤ずきんはルクス青年の腹に吸い込まれていったのですから。

 幾年が過ぎたのか、赤ずきんはもうずっとその盲目の洞窟に棲んでいました。
 ここは多少狭いということをのぞけば、外界の嫌なものすべてから赤ずきんを守ってくれる快適な場所です。
(今までのあんたの子どもが、みんな逃げ出したなんて、嘘みたい)
(どうして君は私から逃げないの?)
 洞窟の岩盤に彼の手が触れた感触がありました。
 赤ずきんは柔らかな肉の壁越し、彼の温もりを感じます。
(ここの居心地がいいから。あんたのことが好きだから……)
(……けれど、みんな、最後には逃げ出していった)
(わたしは逃げ出さないわよ)
(そう、君はほかの子どもたちと違う。自立と称して外界を目指そうとしない。どうして?)
(どうしてどうして、って、あんたもいいかげんしつこいわね。さっきもいったじゃない。ここと、何よりあんた自身が好きだからよ)
(そんなふうにいってくれたのは君が初めてだ)
(ずっとずっとそばにいるわ。ううん、そば、なんてもんじゃないわ。わたしはあんたの一部なんだから)
 だから、ずっと一緒だよ。
 二人の声が重なったような気がしました。
 いえ、それはもはや一人と一人の声ではく、一人と一人の声が癒着した新しい旋律に違いないのでした。

 しかし閉じられた幸福も長くは続きませんでした。
 岩盤に激しい衝撃を感じた、と思ったときには、それはすでに終わっていました。
 赤ずきんは数年ぶりの陽光に、両目をぎゅっ、と閉じました。
「ああ、諦めずに行方を追っていてよかった。この両性体の忌まわしい男めが! 村の女に手当たり次第自分の子どもを産ませては、腹の中に食い戻していたんだ。まったく、恐ろしい男だよ」
 君、立てるかい?
 猟銃を抱えた精悍な若者が手を差し伸べます。
 けれど赤ずきんにはどうでもいいことでした。
「あんたなんてことしてくれるのよ!」
「えっ?」
 感謝されこそすれ、罵倒されるとは夢にも思わなかったとみえる猟師の青年は、ひどく面食らったようでした。
「わたしはずっとこの人の胎内で幸せだったの! すべてから身を隠し嫌なことすべてから目を逸らしこの人の食べるものすべてを無作為に摂取しこの人の感覚感情そのすべて余すことなく共有していたの! それをあんたは……!」
「君が何をいっているのかさっぱり理解できないよ。僕は君を助けにきたんだ。もうずっと行方不明になっていると噂の美貌の赤ずきんを」
「そんなの知ったこっちゃないわ! わたしはこれからどうやって生きていけばいいのよ!」
「どうって、やっと自由になれたんだよ? その猟奇の犯罪者、ルクスの腹の中から……」
「ルクスは犯罪者なんかじゃないわ!」
 猟師の言葉を遮って赤ずきんが激昂しました。
 赤ずきんの激しさに、ふと不信感を抱いたように青年が眉をひそめました。が、直後に、表情を柔らげます。赤ずきんを憐れんでいるようにも見えました。
「……犯罪者と一緒にいると、君みたいになるって聞いたことがある……かわいそうに、あまりの恐怖に、ルクスに依存することで自分を守っていたんだね。けれどもう大丈夫、数年ぶりの外界が怖いっていうんなら僕が君を守ってあげる。なんなら君は僕のお嫁さんになって……」
「あんたの女になって、それで何!? また自分一人の頭で考えて自分一人の足で立って自分一人で歩く、そんな日々に戻れっていうの!?」
「それの何が嫌なんだ」
「すべてよ! わたしは自立なんてしたくないの! しなくてよかったの! それをあんたが……!」
 赤ずきんは悲痛な産声を上げました。
 ルクスの腹の中にいた幼い少女はもうおらず、そこには、成長した自分がうずくまっているだけ。
 ルクスの羊水を浴びた、一人の大人の女が。
 彼が、目の前のこの忌まわしい男が、ルクスを殺してしまったから。
 ルクスがいない、この自立した自分だけが残された世界で。
 ルクス一人だけがいない、この世界で。
 わたしはどう生きていけばいいのだろう。
 わたしは、どう生きれば。

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